僕にとって「薄毛」という言葉は、自分とは無縁の世界の出来事でした。三十代に入り、シャワーの後に排水溝に溜まる髪の毛が増えた気がしても、「仕事のストレスかな」と見過ごし、友人に「おでこ、ちょっと後退した?」とからかわれても、「元から広いんだよ」と強がって笑い飛ばしていました。僕の中には、「自分はまだ大丈夫」という根拠のない、しかし強固な基準があったのです。その基準が、音を立てて崩れ去ったのは、ある夏の日のことでした。友人たちと海へ行き、何気なく撮った一枚の写真。強い日差しの下、水に濡れた僕の髪は、無慈悲なほどに地肌の白さを際立たせていました。特に頭頂部は、自分が想像していたよりもずっと、その密度を失っていました。写真の中の男が、僕だとは信じたくなかった。しかし、紛れもない僕自身の姿でした。家に帰り、恐る恐る合わせ鏡で頭頂部を確認すると、そこには写真と同じ光景が広がっていました。その瞬間、僕は初めて、自分をごまかすのをやめました。僕が勝手に作り上げていた「まだ大丈夫」という基準は、現実の前にもろくも崩れ去ったのです。ショックでした。しかし、それと同時に、どこか肩の荷が下りたような不思議な感覚もありました。もう、自分に嘘をつかなくていい。現実から目をそらさなくていい。その夜、僕は初めて真剣に自分の頭皮と向き合い、生活習慣を見直し、専門クリニックの情報を調べ始めました。あの写真が突きつけた現実が、僕にとっての本当の「基準」になったのです。それは、誰かが決めた基準でも、平均値でもありません。僕自身が「これは問題だ」と心の底から認識した瞬間でした。薄毛の基準とは、もしかしたら、客観的な数値や分類以上に、自分自身の心が発する「なんとかしたい」という悲鳴なのかもしれません。あの屈辱的で、しかし決定的な一日があったからこそ、僕は悩みを認めて前へ進むことができました。あの日の自分に、今は少しだけ感謝しています。
僕が自分を薄毛だと認めた日のこと